【あの頃イタリアで その11 日韓友好コンプレックス同盟】

投稿者 :佐々木英理子 on

西日本から関東にかけての地域はようやく雨が上がりましたね。梅雨時期は強がって「実は雨って結構好きなんだよね~」なんて言ってみたりするへそ曲がりですが、やっぱり太陽はいい!今日は洗濯機3回回しちゃいます!(きっぱり!)

さて、時を戻してあの頃のミラノへ・・。

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日の当たらない教室の窓に背を向け、ランチも食べずに1人暗く佇んでいるクラスメートの韓国人、ヒョンギョン。ドアから突然覗き込んだ私の気配に気づき、横目でジロっとこっちを見た。もう話しかけないわけには行かない。

「チャオ!ナニシテルノ?ヒルゴハンハ?」

「イラナイノ」壁を見つめたままつっけんどんな態度である。

「ドウシテ」

「オナカスイテイナイカラ」なかなか目を合わせてくれない。

それでも単語を繋いだだけのイタリア語でしぶとく話し掛け続ける私に根負けしたのか、彼女も単語を繋いでポツリポツリと話し出した。私と同じように母国では設計施工会社で働いていたこと。イタリアには知り合いも無く、イタリア語も英語も話せないこと。二人とも同じような境遇と知り、急速に親近感が湧いてくる。(顔も平べったいし)会話が弾むに連れ私は“だるまさんが転んだ”の如く徐々に彼女に近づき、とうとう傍の椅子に腰を下ろしていた。・・・と、彼女は気を許したのか、今まで貯めていた行き場の無い怒りを爆発させた。

「キュウケイジカンニナルト、ナンデミンナエイゴハナスノ⁈ ワタシエイゴワカラナイカライツモヒトリボッチ!エイゴ、コンプレックス!ワタシ、エイゴ、コンプレックス!!」何度もコンプレックスを繰り返すヒョンギョン。

「ウンウンワカルヨ~!ソノキモチヨ~クワカルヨ~!ワタシモコンプレックス!」と大きく頷きながら返す私。

こうして私たちは偉大なる共通のコンプレックスの元、必然的に仲良しになった。

放課後になるとドウオモ広場の近くにあるファストフード的ピッツエリア(ピザ屋)に寄り道をして、片言なイタリア語でおしゃべりをした。同じような顔のアジア人同士がイタリア語で話しているのを、ミラノの人たちは不思議そうに眺めていた。週一回は彼女の住むアパートメントで他のクラスの韓国人数人と“フェスタ“と言う名の言わば“家飲み”をして大騒ぎをした。テーブルにはキムチやキンパ、パスタや野菜のマリネが並ぶ。ヒョンギョンは料理が得意である。信じられないかも知れないが、彼女はソウルからミラノまで鍋、フライパン、電子ジャー、茶碗までキッチン用具一式、総重量220kgを手荷物で持ち込んだ人である。どうやってソウルの手荷物カウンターをスルーできたのかは謎だが、結局ミラノのリナーテ空港で追加料金4百万リラ(当時の日本円換算28万円)を請求され、現金を持っておらず言葉も分からない彼女はなすすべなく声の限りに泣きじゃくり、呆れた担当者が無条件で通してくれたというから只者ではない。

今では最悪と言われるほどに国同士が不仲になってしまった日本と韓国であるが、あの頃の私たちにはそんなお国事情を考える余裕などなかった・・と言うべきか、その時を楽しく生きることでとにかく精いっぱいだったのである。こうして日韓友好蜜月月間はイタリア語講座が終わりお互い別々のデザインコースに進むまで続いた。 

そんな日々の中、何度目かのヒョンギョン宅フェスタでのこと。玄関に入るなりヒョンギョンがリビングのドアから顔を出して私を呼ぶ。

「エリコ!エリコ!ニホンジン!ニホンジン!」その指さす先にはせっせと鳥の唐揚げを揚げまくるロングヘアの女性の後ろ姿が・・・。ん?女性?

 

つづく・・・

 

※この思い出話の舞台は1994年-1996年のイタリアです。スマホはおろか携帯電話やデジカメ、パソコンすら一般家庭に無い時代であり、主な通信手段は国際電話かFAXでした。

 

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