こんにちは!オリンピック盛り上がってますね~。その傍ら、コロナ感染者は増加の一途を辿り・・。なんだかパラレルワールドに迷い込んでしまったような錯覚に陥ります。
ではいっそのこと、もう一つのワールドへ行ってみましょうか!あの頃の私はいよいよシチリア一人旅です・・・
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9月の末に3カ月間のイタリア語講座が終了し、本番のデザインスクールが始まるまで約3週間。さて何をしようか?しばし考える・・そして思った。これはもう補習授業で台無しになった夏休みのリベンジをするしかあるまい!そうだ!旅に出よう!・・で、一体どこに?”
私は生まれてから大学を卒業するまで、海際の町で育ったせいか山よりも断然海派である。あまりに海が好き過ぎて、自分の前世は海の生き物だったに違いないと思っていたことさえある。サメかクジラか・・いやいやそんなかっこいい生き物ではない。せいぜいハリセンボンかクラゲ辺り。それくらい海には思い入れがあるのだが、気が付けばイタリアに来てからまだ一度も海を見たことがない。ミラノは内陸にあるのだから当然のことなのだか、ずっとどこか落ち着かない気がするのは、ミラノに海が無いからなのではないだろうか?
そうだ!海に行こう!湖でも川でもない。私は海に行きたい!
で、イタリアの海と言えば?”グラン・ブルー(1988年公開)”である。グラン・ブルーと言えばシチリア島だ。決まり!シチリア島に行こう!・・と安易に決定。思い立ったら止まらない。早速翌日、アウトドア用品店でバックパッカー用のどデカいリュックを購入。これだけ大きければ、もしもの時のために日本から持参したダイビング用のマスクとフィンも余裕で入れられる。
青い空と青い海と新鮮な魚介類!買ったばかりのリュックを抱え、地下鉄のベンチに座りながら妄想にふけっていると、横から突然話しかけられた。
「あなた、そんな大きなリュックを担いで一体どこに行くつもり?」我に返って声がした方に目をやると、80代位と思われるおばあちゃんが興味津々でこっちを覗き込んでいる。
「あ~、え~と・・シチリア島に行くんです~」
「え?!シチリアに?まさかあなた一人で?」
「はい、私一人で・・」おばあちゃんの顔がみるみる引き攣って行く。
「止めなさい!あんな危険なところに一人でなんて!絶対ダメです!あなた、あそこがどんな危険なところなのか知ってるの?!あなた、マフィアって聞いたことある?!」
見ず知らずのおばあちゃんの説教は止まらない。分かったように頷き続けるのも限界に近づいたとき、ようやく電車が到着。救われた~!
後に良美さんから聞いた話によると、ミラノのご年配の方の中には未だに「シチリアはイタリアではない!あそこはアフリカなんだ!」という偏見を持った方がいるらしいとのこと。(1994年当時)良美さんがミラノにやって来た頃は”シチリア人入店お断り“という張り紙があるお店があったとか。酷い話である。
が、そんなことでは諦めない。絶対にシチリアに行くのだ!しかし、3日後に旅立つというのに” シチリアと言えばグラン・ブルーとゴッド・ファーザー” 程度の知識しか持ち合わせておらず、行先も宿も決めていない。当時の私のいつも通りのスタイルだが、今考えるとやや無謀(汗)。
余分なお金なんて持っていないのだから、食事は缶詰か何かで済ますつもりでフォークとスプーン、お皿とコップをリュックに詰めた。良美さんがどこかで新鮮な魚に巡り合えた時のためにと、小さい容器に移し替えた醤油と、貴重なワサビのチューブをくれた。さすが良美さん!気が利く~!これで完璧!
↑ このリュック、全身の半分くらいありますな!(笑)
そして3日後の1994年10月5日。ナポリでシチリア行きの寝台列車に乗換えるため、まずはミラノ中央駅からナポリ行きの列車に乗り込む。ワクワクとドキドキが止まらない!いよいよシチリア一人旅(という名の珍道中)の始まりだ!
つづく・・・
※この思い出話の舞台は1994年-1996年のイタリアです。スマホはおろか携帯電話やデジカメ、パソコンすら一般家庭に無い時代であり、主な通信手段は国際電話かFAXでした。