【あの頃イタリアで その33 くせ者揃いの各国代表、ここに集結!】

【あの頃イタリアで その33 くせ者揃いの各国代表、ここに集結!】

roomsが無事に終了しました~!人間が発する前向きなエネルギーを肌で感じるのはとても久しぶりのことで、なんだかパワーをもらった気がします。

さて、お待たせしました!早速あの頃のイタリア、ミラノへ・・・

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説明会から2日後、本格的に授業が開始されるその日、教室には私を含め総勢25名の生徒が集まった。25人中15人がイタリア人、その他10人の国籍は多様。アイスランド、スイス、イギリス、ギリシャ、アメリカ、キプロス、韓国、日本。男女比だと男性8名、女性17名と言った構成だ。

このデザインスクールは4年制の専門学校であるため、1年生から入学したイタリア人たちは大体が20歳そこそこ。3年生から編入した私たち海外組は、母国で一旦社会人として働いてからその職歴を元に編入審査をパスしているので、概ね20代半ばから後半といった感じである。

2日前、説明会に遅刻した挙句にうるさいと怒られた(前回参照)ことへの猛烈反省から、かなり余裕をもって登校した私であったが、既にほとんどのクラスメートが教室に集まっている。

「おはよ~・・」ちょっと緊張気味に挨拶をして、おずおずと教室へ入ったその途端、

「お~!エリコ!早くシチリアの話を聞かせろよ!」げげ!ミハイルめ、まだ諦めてなかったのか!それどころか、

「なあなあ!こいつ凄いんだぜ!1人でシチリアを旅して来たんだよ!」と紙芝居の呼び込みの如く大声を出すものだから、周りにいた数人がどやどやと集まって来た。眼光鋭くミハイルを見据えつつも、え?シチリアってそんなに危険なところだったの?と今更ながら怖気づく。

「え~~!お前1人でシチリア行ったの?!俺なんてベネチアにも行ったことないのに!」とビックリ顔で話すのはミラノ生まれミラノ育ちの箱入り男子、マルコ、21歳。長身で童顔、ちょっと天然パーマ気味の黒髪が印象的な彼はのちにミハイルと私に毒され、3バカトリオの1人となる。

「あなた言葉もあまり話せないのに、よく無事に帰ってきたわね!」と上から目線で話すのは生粋のミラネーゼ、マーベル嬢。そう言えば・・旅行用のリュックを買った帰りの駅のホームで、見知らぬおばあちゃんにシチリアは危険だと説教されたっけ。(その21参照)

とにかくイタリア北部の人々にとってシチリアは、まだまだ未知の土地らしい。(1994年当時)箱入りマルコに至ってはミラノのすぐそばにある世界的観光地、ベネチアにさえ行ったことがないと言うのだから論外だ。

何はともあれ、お調子者のミハイルのお陰で、あっという間にクラスメートと仲良くなった。話せば話すほどなかなかの個性派揃いだが(きっと向うも私のことをそう思っている 笑)、これから2年間、苦楽を共にする仲間でもある。

ポルタ・ジェノバのマーケット。運河沿いにズラリとお店が並ぶ↓

その日の夜はクラス全員でミラノの南西にある運河沿いのエリア、ポルタ・ジェノバ(Porta Genova)へ繰り出した。ポルタ・ジェノバはオープンエアのお洒落なBARやレストランが点在し、週末には骨董市やマーケットが開催されるため、観光客にも人気のエリアである。

”みんなでブラジル料理を食べた”と当時の私の手帳に書いてあるが、かなり飲み過ぎてしまったらしく、その日のことはあまり覚えていない。きっと楽しい夜だったはずなのに・・残念無念!

それでもポルタ・ジェノバがかなり気に入ってしまった私は、その後何度も一人でそこを訪れている。そしてその念力が通じたのかどうか、それから1か月後、私と良美さんは偶然にもそのエリアに引っ越すことになるのである。

イタリア上陸後、半年も経たずしての3回目の引っ越し・・・。それにまつわるドタバタはまた後日のお楽しみ。

 

つづく・・・

※この思い出話の舞台は1994年-1996年のイタリアです。スマホはおろか携帯電話やデジカメ、パソコンすら一般家庭に無い時代であり、主な通信手段は国際電話かFAXでした。

 

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