【あの頃イタリアで その41 校内デザインコンペの奇跡2】

【あの頃イタリアで その41 校内デザインコンペの奇跡2】

校内ベッドデザインコンペで優勝したその日の夕方。授業が終わると同時に課外授業担当の現役インテリアデザイナー、アントニオに別室に呼び出された。入学して以来、注意警告以外で先生に呼び出されるのは初めてのことだ。

「エリコ、おめでとう!これからのことを説明するからそこに座って。」言われたままアントニオの向かい側に座る。

「さあ、これから忙しくなるよ!」アントニオは私の目を真正面から見つめながら楽しそうに微笑んだ。

「まずは、あなたがデザインしたベッドのプロトタイプ(試作品)を製作するために、ベッドメーカーと細かな打ち合わせをしなければなりません。」

「え?!あのベッド、作ってもらえるんですか?!」

「・・・あれ?優勝したらベッドを作ってもらえるって聞いてない?」

「!!今初めて知りました!!」・・間違いなく説明されていたはずなのだが、何を言っているのか理解できなかった、というのが正しい。(その40参照)

そこで、遅ればせながら今回のコンペについてアントニオから丁寧に説明してもらったところによると、なんでもこのコンペは木材成型加工を得意とするミラノの某家具メーカー主催のものであり、優勝したベッドはそのメーカーの工場で製作してもらえることになっているとのこと。

こりゃあえらいこっちゃ!と今頃になって脳内にアドレナリンが溢れかえる。

その翌週、学校を訪れたメーカーの方々と打ち合わせをし、(と書くと偉そうに聞こえるが、相変わらず打ち合わせの5割は理解できないので、ほぼ頷いているだけ)それでも要所要所の肝心なところはアントニオが強調してゆっくり話してくれるので理解ができた。

物凄く短めにまとめると(ようやく確認できたことは)こうだ。

「図面と模型を元に製作を開始します。ある程度のところまでできたら連絡するので、工場に来て確認をして欲しい。」

というわけで、打ち合わせから2週間後の2月の終り頃、私は箱入りマルコと、同じくクラスメートのチャリンコ少年オスカルと一緒に、ミラノの北にあるメーカーの工場を訪れた。なぜこの二人と一緒に行くことになったのか今となっては不明であるが、当時、箱入りマルコは親に買ってもらったホンダのアコードを乗り回していたので ゛俺が乗せてってやるよ!″ 的な軽いノリだったのだと思う。それにマルコと仲の良いオスカルが、遠足がてら便乗したと予想される。

ミラノ中心地から車を飛ばすこと約1時間。その工場は予想以上に広かった。

「うわー!デカいな!楽しいな!」自転車乗りのわりに抜けるように白いオスカルが女子のようにはしゃぐ。

作業着姿の担当者に案内されて連れて行かれた先の大きな作業台の上に、ベッドのヘッドボードと一体型の成型合板のベースが置かれていた。ベッドは成型合板とスチール製の脚、2つの大きなパーツでできているのが特徴なのだが、脚部はまだ外注先から届いていないとのことで、今回はベースのみの確認だ。

ヘッドボード部分のカーブの角度や細部の加工の修正をなんちゃってイタリア語でマルコに伝え、マルコが工業担当者に本物のイタリア語で通訳するという不思議なやり取りをすること30分。私たちは次の訪問日を確認し、工場を後にした。

当時の図面。今となってはちょっと恥ずかしい・・若気の至り的デザイン。

その帰り道。マルコがいつになく真剣な面持ちで運転席から私に忠告する。

「エリコ、あのメーカーがあのベッドを無断で商品化していないか、いつもチェックしないといけないよ。例え日本に帰ってもだ。イタリア人にはズル賢い人間がいるからね。学生は特にナメられるんだよ。」イタリア人のマルコが言うのだからそうなのだろう。

ベッドを作ってもらえる嬉しさで頭がパンパンな私は「うん、分かった。」と軽く返したが、今思うと8歳下にも関わらず、マルコは随分大人だったのだなと思う。

 そしてそれから待つこと約3週間、とうとうベッドは完成したのである。

 

つづく・・・

※この思い出話の舞台は1994年-1996年のイタリアです。スマホはおろか携帯電話やデジカメ、パソコンすら一般家庭に無い時代であり、主な通信手段は国際電話かFAXでした。
 

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