【あの頃イタリアで その44 働かなければ即刻帰国!】

【あの頃イタリアで その44 働かなければ即刻帰国!】

こんにちは。関東は明日も雪予報が出ているようですね。「東京の人はなんでこんなに雪に弱いの?」なんて北国育ちの私が発言することを最近では”雪国マウント”と言うらしいです(笑)気を付けなければ!

さて、今日は突如訪れた留学継続の危機、そしてアルバイトのお話・・・

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ミラノの一大行事の一つであるミラノサローネが終わり、外国人で賑やかだった町が落ち着きを取り戻した頃、それを待っていたかのように学校の授業が忙しくなって来た。

日本と違ってイタリアの学校の年度末は6月なので、5月に入ると、いつも遊び回っているクラスのみんな(私を含む)も6月の期末テストや作品提出期限に向けて真面目に取り組みだした。課題を全てクリアしないと4年生に進学できないからだ。

そんなある日のこと、例のコレクトコール事件(その18参照)以来できるだけ国際電話をしないようにしていた私の元に、珍しく日本の母から電話がかかってきた。

「もしもし~元気にしてるの?」

「うん、最近は真面目に勉強してるよ~」

「そうか・・・」心なしか、いつもうるさいくらい元気な母の声が暗い。

「どうしたの?」

「・・・実はね・・もうあんたに仕送りできなくなったんだよ」

「え?!」

何を隠そう、お恥ずかしいことに私の留学資金は早々に底を突いてしまい、28歳にもなる私は出世払いという名目で母から毎月仕送りをしてもらっていた。

母の話によると、バブルが崩壊してからもなんとか順調に経営を続けていた父の会社であったが、ここに来て突然経営状態が悪化してしまい、とても仕送りどころではなくなってしまったとのことなのである。つまりそれは、学校を辞めて即刻日本に帰らなければならないということを意味する。

受話器を置いてすぐ、ただならぬ気配を察して心配してくれた良美さんに全てを話した。

突然のことに良美さんもショックを受けたらしく、しばし二人とも黙る・・・。そして良美さんは口を開いた。

「これはもう働くしかないわね!すぐにアルバイトを探すのよ!」

「・・だけどこんなイタリア語もろくに話せないのに働かせてくれるところなんてあるかな?」

「とにかく探すの!だってあなた、このままだと4年生に進級できないどころか、日本に帰らなければならなくなるのよ!私も知り合いに当たってみるから、あなたもすぐに探すのよ!」

「う、う、うん!」

 その日から、試験勉強の合間を縫って緊急アルバイト探しが始まった。と言っても思い付くアルバイト先はそう多くも無く・・・日本食レストランに日本人向けカラオケ店、とにかく日本にまつわるあちらこちらに電話帳をめくっては片っ端から電話をかけてみたが、どこも今は間に合っている言う。どうしよう・・マルコに頼んで探してもらおうか・・と思っていたその日の夕方、良美さんがニコニコ顔で仕事から帰って来た。

「いいとこ紹介してもらったわよ!」

詳しいことは良く分からないが、なんでも日本人観光客向けのお土産屋さんらしいとのこと。私に選択の余地などあるわけも無く、とにかくすぐに面接に行くことになった。

翌日、指定されたトラムを乗り継ぎ、良美さんから手渡されたメモにある住所へ向かった。お土産屋さんという割に、降り立ったその駅はミラノの中心地から外れたとても辺鄙な場所にある。住所にあるその通りは繁華街どころか倉庫が立ち並び人の気配も無い。心なしか何やら物騒にさえ思える。

“え~?こんなとこにお土産屋さんなんてホントにあるの?もしかして道間違えたかな・・・”と思い始めたとき・・・“あ~!あった!”指定の住所が書かれたプレートの上に、小さく“MADLA(マドラ)”と書かれてある。“間違いない、ここだ!”

一歩下がって改めてマジマジと見るその建物は何とも異様であった。人気のない通りに面した窓のガラスは全てミラー張りで、一切中が見えないようになっている。そもそも看板らしきものが見当たらないのだ。

 

つづく・・・

※この思い出話の舞台は1994年-1996年のイタリアです。スマホはおろか携帯電話やデジカメ、パソコンすら一般家庭に無い時代であり、主な通信手段は国際電話かFAXでした。

 

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