【あの頃イタリアで その9 涙で煙るボンゴレロッソ】

【あの頃イタリアで その9 涙で煙るボンゴレロッソ】

緊急事態宣言、やはり延長になってしまいましたね。ワクチンが行き渡るまでもうしばらく時間がかかるようですが嘆いてばかりじゃ今が勿体ない。この自粛生活だからこそできることを楽しむしかないですね。え?もうやり尽くした?いやいや探せばまだまだいっぱいあるはず。私は今、このブログをきっかけに過去の海外旅行で撮り貯めた写真整理をしていますよ。今となってはかなり遠くなってしまったヨーロッパに思いを馳せながら・・・。

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さて、19947月、2度目の引っ越しをすることになる4日前のこと。私は玲子さんが紹介してくれた次なる同居予定人と面会するべく、彼女のアパートメントに向かっておりました。

「あなたとにかく一度良美ちゃん(仮名)に会ってみなさいよ!良美ちゃんもちょうど今同居人を探してるところだから。会ってみて大丈夫そうだったらすぐに引っ越しできるし、ね!ね!そうしなさいよ!」との玲子さんの助言に従ったのだが、私としては会ってみるも何も、同居してもらう以外に選択肢などない。

トラムを3つほど乗り継いだろうか。地図を開くとミラノ大聖堂の右斜め上にある地下鉄ランブラーテ駅から徒歩8分程、古い建物が立ち並ぶ落ち着いた住宅街の中に良美さんが住むアパートメントはあった。

私は少し緊張気味に重厚なエントランスの呼び鈴を押した。「は~い!6階まで上がって来てくださ~い!」玲子さんにも増してハキハキとした口調である。暗いエントランスを抜け、午後の日差しが眩しい中庭を横切り、奥の棟の6階。ヨーロッパ式の“手動ドア付バッタンガックン落ちるかもしれないエレベーター”(個人の感想です)に手こずりながら辿り着いたフロアの突き当り、ドアの奥から元気の良いエンドウ豆のような人が飛び出して来た。この人が近藤良美さん当時37歳独身、ミラノ在住歴10年のインテリアデザイナー、私より10歳年上のお姉様である。

「水かワインしかないんだけどどっちがいい?」もちろんワインである。テーブルの上の空のグラスと飲みかけの自分のグラスにドクドクと赤ワインを継ぎ足しながら彼女はハキハキとした口調でこう私に告げた。「住む前にどんな所かちゃんと見てからじゃないと嫌でしょ?だから来てもらったの。それに、あなたにも選ぶ権利があるけど、私にも選ぶ権利がありますから!」きっぱり。・・・う~む、玲子さんにも増してミラノ的(?)な方のようである。

一瞬の緊張感が走ったものの、酒はカスガイ。ワインが進むに連れ私たちは饒舌になりいろいろなことを話した。私にとってこんなに長い時間日本語で話すのは久しぶりのことである。

そしてあっという間に夜の8時を過ぎた頃、「昨日の残り物のソースだけど」と、良美さんがスパゲッティを茹でてくれた。トマトソースの赤いボンゴレ、ボンゴレロッソ。ガーリック味の白いボンゴレ、ボンゴレビアンコは日本で食べたことがあったが、赤いボンゴレは初めてである。濛々と湯気の立つお皿が目の前に置かれた瞬間、突然私は自分が激しく空腹であることに気付いた。思えばイタリアに来てから暖かいものを口にしていない。11日間、セルフサービスレストラン“アミーコ”のサラダとパサパサのパンのみで生き延びて来たのだ。

初めて食べる熱々のボンゴレロッソは泣けるほど美味しかった!ボンゴレがそのまま自分の細胞になっていく錯覚に陥った。くるくるとフォークで巻くのももどかしく、次々とスパゲッティを頬張る。その合間に一人合いの手のように「美味しい!美味しい!」とお皿から顔を上げて叫ぶ私。そんな私を良美さんはケラケラと笑いながら眺めていた。

随分経ってから聞いたのだが、良美さんはこのときの私を見て同居することを決意したそうだ。彼女曰く、「美味しそうにご飯を食べる人に悪い人はいない!」とのこと。 

こうして私の楽しいイタリア生活はようやく幕を開けたのである。

 

つづく・・・

※この思い出話の舞台は1994年-1996年のイタリアです。スマホはおろか携帯電話やデジカメ、パソコンすら一般家庭に無い時代であり、主な通信手段は国際電話かFAXでした。

 

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