【あの頃イタリアで その80 卒業設計は静かに幕を下ろすのだ】

【あの頃イタリアで その80 卒業設計は静かに幕を下ろすのだ】

こんにちは。関東は梅雨の晴れ間の土曜日です。私は次回の期間限定ショップまで間があるので、油断しすぎてややボケ気味。今日もボーっとしながら(時折ニヤニヤしながら 怖!)ブログを書いています。

さて、今日は卒業旅行から少し離れて、卒業設計発表会のお話・・・

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卒業設計が大詰めを迎えていた1996年6月の始め、私は半年間お世話になった設計事務所でのアルバイトを辞めた。ここで働かせてもらったお陰で生活が安定し、何とか無事に卒業できそうである。どこの馬の骨とも分からない私を迎え入れてくれたピエラとダッグには感謝しかない。(その63参照

アルバイト最終日、2人に見送られながらオフィスを出ようとしたとき、エントランスの壁に飾ってある模型が目に留まった。発泡スチロールで作ったトスカーナのピエラの別荘。そう、アルバイトを始めて一つ目の大仕事であった。半年前のことなのに凄く懐かしい思いが込み上げてくる。(その64参照

「エリコが “色は付けない方がかっこいいよ” って言ったからこれからもこのままにしておくよ。」と言うダッグも懐かしそうに模型を眺めている。

「うん、そうだね、絶対このままがいいよ!」

「本当に卒業したら日本に帰ってしまうの?もし予定が変わることがあるのならまた戻って来てね!私たちはいつでもウェルカムよ!」ピエラはすくすく育つ我が子を腕の中であやしながら、母のような眼差しでそう言ってくれた。

卒業設計発表会は各グループごとにプレゼン形式で行われることになっていた。大きな教室に建築・インテリアデザイン科の生徒と教師、それに外部からの招待者、総勢100名ほどが集まり、617日と18日の2日間かけて開催される。1日目はプレゼンテーション。2日目は結果発表。卒業の可否は30点満点で採点されることになっていた。(落第点がいくつであったかはどうしても思い出せない)

発表会当日、卒業グループのメンバーであるマルコと私、思考系日本人の吉本くんとシチリア系豪快女子のダニエラ(その67参照)の4人はできるだけのことはやったという共通の思いで会場へ向かった。

会場のドアを開けた瞬間、教室中に充満した緊張感に一瞬たじろぐも、入学説明会のときのようにこっちに向かって無邪気に手を振るミハイルを見つけ、我に返った。卒業旅行の一件(その79参照)以来、顔を合わせるのは初めてだが今日はそれどころではない。2年半の留学の集大成となる大切な日なのである。余計な雑念は無用。取りあえず引き攣り笑いを返す。

開始の時刻。卒業設計の担当教師陣が入場。そして私たちの担当である “泣く子も黙るルカ・スカケッティー” (その32参照) が姿を現した時、とうとう全員が無口になった。

いよいよ発表会が始まった。建築デザインを選択した私たちのグループに与えられた課題は“大都会の中の老人ホーム”だ。プラン全体の概要をマルコが説明した後、7階建の建物各フロアの説明を手分けして説明することになっていた。

未だイタリア語がままならない私は台本丸暗記形式であったが、それでも抑揚をつけてイタリア人よろしく身振り手振りで上手くプレゼンができたと思う。(家を出るとき、景気付けにとワインを一杯飲んだことは未だ秘密である 笑)

それが功を奏してか(いや、絶対そうではないが)翌日の結果発表で私たちは30点満点を獲得し、めでたく卒業の太鼓判を押して貰うことができた。

とにかくみんな寝不足で疲れ切っていたので涙こそ出なかったが、あのルカ・スカケッティーが “30点満点!” と言った時のみんなの晴れ晴れした笑顔は一生忘れない。

全員徹夜続きだったので打ち上げは後日にし、この日は疲労困憊の身体を引きずってヨロヨロとそれぞれの家路についた。

私はといえば、家に入るなり、残る力を振り絞って部屋にある簡易ベッドをバルコニーのド真ん中に引きずり出し、傍らにワイングラスを置いて青空を見上げながら爆睡したのである。

 

どこか遠くで同居人の良美さんの声が聞こえる。

「ちょっとー!あなたどこで寝てんのよー!信じられなーい!」

その後、ケラケラと笑う声が聞こえ、その声はどんどん小さくなって光の中に吸い込まれていった。

 つづく・・・

 

※卒業設計図面実物(あの頃は全部手書き!) ↓

 

 

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