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【あの頃イタリアで その17 ワインとプロレスがもたらしたもの】

投稿者 :佐々木英理子 on

関東近郊は物凄い雨が降り続いていますが、皆さん無事にお過ごしでしょうか?ここ調布市はようやく雨が上がり薄日が差して来たところです。雨が続くと出掛けるタイミングを失い、ついつい運動不足なりますよね? 随分蓄えてしまった栄養分を燃焼するべく、午後からウォーキングでもしようかな~と思っているところです。

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さて、ここはミラノ・・・8月も終わりに近づき、イタリア語講座後半戦が始まって一週間が経った頃。友人のヒョンギョンが猛勉強していると聞いて、流石に焦っているかと思いきや、当の私は開き直ったかのように遊び回っていた。どうも私には“悔しい!負けてなんかいられない!今に見てろよ!”的な感情が欠落している。例え一瞬思ったとしても、一晩寝るとすっかり忘れてしまうのである。その感情を持続することができていたなら、私は今頃凄い人になっていたに違いないと、密かに思ってさえいる。

その頃、二日に一回はクラスメートの自宅に集まり、フェスタと言う名の宴会をするのが流行っていた。基本的に場所を提供した人が自国の料理でおもてなしをするのだが、それぞれ国籍がバラバラなのでフェスタの度に様々な国の料理を楽しめるのが嬉しい。

 

そして、みんな自宅に友人を呼ぶのが大好きである。

「今日はサールの家でフェスタしようよ!」「その次はうちでやろう!」「じゃあ次の次はうち~!」と言った感じである。誰かが「エリコのうちはいつ?」と言うがそれはあり得ない。自宅で宴会をしようものなら全員一列に立たされ、良美さんにこっぴどく叱られること間違いなしなのだ。

美味しい料理とワインの効果は絶大である。フェスタの度にクラス中が打ち解けて行った。そのお陰もあり、同じクラスに居ながらかなり疎遠になっていた例のイスラエル人カップルとも少しずつ話をするようになって行った。(?の方はその6をご覧ください)

あるフェスタの翌日のこと。そのカップル、彼氏のダビデと彼女のミハルが私のところにやって来て、未だかつて見たことのない笑顔でこんなことを言う。

「エリコ!タカダ!シッテル?」

「へ?」

「タ~、カ~、ダ~!」私が聞き取れなかったと思い、二人揃ってもう一度ゆっくり繰り返した。

・・・果たして突然何のことやら??である。

と、ダビデがいきなり背負い投げのようなジェスチャーをしながらやたら陽気に「レスリング!レスリング!」と言う。

「え?!まさか・・・プロレスの高田延彦?」「イエスイエスイエ~ス!ノブヒコ、タカダ!ボクタチ、タカダノダイファン!」当時の日本ではプロレス人気が高く、全く興味の無い私でも高田延彦の名前は知っていた。とは言え、イスラエル人が日本のプロレスを知っているとは!ましてや高田延彦に熱烈なイスラエル人ファンがいるとは!今すぐ本人に教えてあげたいくらいだ。

「ソレデネ、エリコ、オネガイガアル!」「な、な、なんでしょ?」満面の笑顔の底に見え隠れする“圧”に怯える私。

「タカダノポスター、ニホンカラオクッテモラエナイ?モチロンオカネハラウヨ!」・・・最近ようやく仲良くなったとは言え、いきなり図々しい依頼である。つい最近まで私と目を合わせようとすらしなかったではないか!

・・がしかし、そのハイテンションな"圧”に抗いようもなく・・・。数か月後、日本から食料品と一緒に送って貰った高田のポスターを渡したときの二人の喜びようは尋常ではなかった。

その後のフェスタで、私は酔いに任せて二人に愚痴を溢した。「ちょっとちょっと~何で初めからそんな笑顔でいてくれなかったのよ~。そしたら楽しく暮らせたんじゃないの~?」

二人は言う。「エリコの"イタリア語30分トーク"とっても面白かった!あの “海底ウ〇コ“の話を聞いて、こいつはいいやつだ!と思った!」とのこと。(その14参照)

う~む・・あの話をしたことをずっと悔やんでいたが、悪いことばかりではなかったのね・・。大概のことは一晩寝てしまえば何とかできる私だが、この二人との暗かった同居生活の記憶は、なんとも説明しがたいモヤモヤな霧状のまま、心の中に薄く漂っていた。それがこの時やっとすっきり晴れたのだ。

その日のフェスタは格別に楽しくて、ワインもチーズも美味しくて、またしても飲み過ぎてしまったのである。

 

つづく・・・。

 

※この思い出話の舞台は1994年-1996年のイタリアです。スマホはおろか携帯電話やデジカメ、パソコンすら一般家庭に無い時代であり、主な通信手段は国際電話かFAXでした。

 

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